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てんかん発作とつい最近になって学んだこと

てんかん」という言葉を数年前からテレビやネットで目にするようになった。

私はその「てんかん」という病気を持つ人に12年前に出会った。

 

最初に変だなと思ったのはレンタカーに乗って出かけたとき。

 

ナビがあったにもかかわらず道に迷ってしまった。普通なら車を止めてナビを見直すか、考えながら道を進んでいくかだと思う。

けれども気がつけばスピードがどんどん速くなっていく。

しかも角という角を見つければ全くスピード落とさずに曲がりどんどん狭い路地へ入っていく。

 

もし人がいれば間違いなく跳ねているレベルだったし、横目で見ると運転している本人が取り憑かれたようにハンドル操作している。

このままだと確実に殺すか死ぬかのどちらかだと思った。

 

そろそろまずいんじゃないかと思った矢先、道端に転がっていた大きな石をタイヤが弾いた。それと同時に出した私の大きな声でその人は我に返った。

自分がなんて言ったかは覚えていない。ただ何か声をあげたのは覚えている。

そしてまだその時点では「てんかん」ということには気がついていない。

 

何か引っかかるものを感じながら、後日電話でとある理由で喧嘩になった。

途中でその人の様子がおかしくなっていることに気がついたので電話を切ってタクシーで家まで向かった。

 

玄関でインターホンを鳴らすと、ドアが開いた。

ああ、倒れてはないんだと思いながら大柄なその人を見上げたら視点が全く噛み合わず、少しヨダレを垂らした状態でだった。

そしてフラフラとベッドまで歩いて行き仰向けになった。

 

眼球がくるくると回ったような状態で口から泡を吹き、痙攣を起こしている。

少し動揺したけど、でも意識はある。心拍も停止していない。

痙攣を起こしてはいるものの、死にそうな感じではなかったので救急車が必要かどうかを聞いてみた。

その人は大きく首を横に振ったので、しばらく様子を見ることにした。

 

どれくらい経ったかは覚えていない。突然、その人は笑い出した。

子供のような女の子のような笑い方だった。

次に泣き出した。これも同じような泣き方だった。

そして最後に歌い出した。子供のような高い声。なんの歌かはわからなかった。

 

その笑い声と泣き声と歌声を聞いたとき、もう大丈夫かと思って床で寝た。

夜中の3時ぐらいだったと思う。

 

朝、目を覚ましたらその人も起きた。なんの話をしたかは覚えていないけれど

私が怖がって逃げなかったことには驚いていた。

その日は仕事だったのでそのまま一旦家に戻って会社へ行った。

今の私なら確実に休んでいると思う。

 

脳が何か強いストレスを感じた時というのは、やはり感情を出すことで正常な状態に戻すんだなと認識した出来事だった。

 

ただそのことを誰にも話したことがないし、びっくりしたとか怖かったとか感情的になったことのない自分に今嫌気がさしている。

 

最近になって私が間違っていたと感じるのは、ストレスを感じない感じさせないよう我慢しない人を認めてしまっているということ。

社会で生きていれば我慢をしなくてはいけないことがたくさん出てくる。

そのストレスを一人の人間にぶつけているようでは何の解決もしない。

ましてや、自分が感情を出したいからといって相手の感情を押さえ込むような人は論外。自分が満足したいだけだ。

何でもいい、笑ったり泣いたり歌ったり感情を出せる場所で感情を出す。

それでもストレスというのはなくなるとは思わないが、一人の人間にぶつけるほどの攻撃力はないと思う。

自分で解決策を見出せるほど冷静になっているかもしれない。

 

だからこそ表面上でも何でもいいからいろいろな人と繋がるというのは

必要かもしれない。

みんなが私のために生きているわけではない。

私は人の人生を邪魔するつもりなんてなかった。

好きな人は守りたいし理解してあげたいけれど

今の私ではきっと大事な人を犠牲にしてしまうと思う。

 

「依存」「協力」「犠牲」考え方はさまざま。

今私の頭の中にあるのは現実を見ても理想を見ても

「犠牲」でしかない。

 

 

被害者であり、加害者。

 

 

 

2017年11月28日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一番好きな科目

一番好きな科目は数学

 

じっくり隅々まで納得するまで学びたかった。

 

だけど、どうしても社会や英語なんて暗記系の得意科目から先に終わらせてしまい

気がつけば数学は最も苦手な科目になっていた。

 

数学に未練タラタラ。

今でも本屋へ行けば開いてしまうのは数学の参考書。

 

まるで恋愛のよう。

 

 

ドラムのスティック

私の家にはドラムのスティックがある。

 

私はドラムなんて触ったこともないので

もちろん私のものではないけれど。

 

元彼が忘れていったものではあるけれど

元々の持ち主は彼ではなく一緒にバンドを組んでいた友達。

 

実は彼のツイッターのアカウントを知っている。

彼にコンタクトを取る方法はそれしかないのだけれど

何せ知り合いではない。一度だけ顔を合わせて

2回ほどライブを見にいっただけの関係。

 

どうしようか悩んで1年が経とうとしていたとき

たまたま聴いたバンドのドラムの音がとても重く

彼のドラムの音と重なったので、メッセージを送ることにした。

 

FF外からのメッセージなので極力丁寧に

慎重にメッセージを送ったので、1時間ほどして来た

彼からの返信も丁寧で申し訳なさそうな内容だった。

結論から言うと、捨ててくれて構わないとのことで

長い間モヤモヤとした感情を持たせてしまって

申し訳ないといったことが書かれていた。

 

加えて、彼が今音楽活動をしていないこと

また再開できる日を望んでいることを知った。

 

彼にとってドラムは何より大事でどんなめちゃくちゃな

生活であってもその熱意は彼を支えていたはずだし

そのドラムを今していないってことはもしかすると

守るものができたのかもしれない。

ただ私は、また再開できる日を望んでいると言うメッセージを

読んで、このスティックを捨てる気にはなれなかった。

 

もしかすると、この一番最初に買ったと言うスティックは

彼にとって次に進むためにない方が逆にいいのかもしれない。

そんなことを考えながら、彼には処分すると伝えた。

 

いつか本人に渡せる日が来ればいいと思ってる。

 

同窓会

今日は同窓会。

 

実家に帰っていないので、出席はもちろんしないけど

先生方も参加されるみたいで賑やかな感じになりそう。

 

最後まで来るかどうか気にかけてくれてた友達いたけど

結局帰らなかった、ごめん。

 

みんなが元気かどうかはもちろん気になるけど

出席しなかった1番の理由は

今の自分に満足していないので、なんとなく他の人が

恨めしく思ってしまうのが怖かったんだと思う。

 

一流企業に勤めている人、医者、弁護士になっている人

結婚して子供育てている人。。。

 

みんなそれぞれ見えないところでいろいろあるかも

しれないけれどね。

 

新幹線に乗るのもまだちょっと怖いし

こだまならなんとかいけるだろうけどね。

 

次に大きな同窓会する時は自分が変わっていたら

出席しようかと思う。

 

 

価値観の違い

一言で価値観といってもいろいろあると思う。

 

価値観が違うもの同士似た者同士とか聞くけど

経験上価値観は同じでないと後々しんどい。

 

愛情はいつしは薄れるものだと思う。

消えるとまでは言わないけど。

その情がただの情になる可能性はあると思う。

 

価値観の違いというのは

本来はストレスになるはずだけど

愛情が大きいうちはそれが刺激となって

魅力的に思えるかもしれない。

 

次第に、その違いがストレスになって

重荷になって、どちらかが自分のことを

考えたいと思うようになった時

もしくは、他の誰かのこと考えたい

と思ったとき

抱えきれなくて別れる。

 

例えばもし、価値観が似ていれば

自分のことを考えた行動の

延長線上に相手がいることになり

負担にならない。

 

具体例を出すならば

食事のメニューでもし

自分の食べたいもの=相手の食べたいもの

であれば、それは作り手の負担にならない

けれども、もし違うなら

自分の食べたいものを差し置いて

相手の食べたいものを

優先したり、余分に作ったりして

結果的にしんどくなる。

 

だから、似た者同士が一緒になるのが

一番いい。

 

 

 

AirPods

6月にほしいと思って注文したAirPods、6週間待ちってなってて

 

待てるかいって思ったんだけど、結局注文したまま放置

 

でその間、イヤホン紛失して新しいの購入したから

 

まあいいやキャンセルしようって思ったら、なんか発送準備してて

 

このブログ書いてる時に、ヤマトが運んできましたよ。

 

ああ、無駄遣い。。。

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無くさないよう大事にしよう。。。